昭和44年11月8日 朝の御理解 (末永信太郎) №44-164
御理解第七十八節
神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代つづいたら、家柄一筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわんと、身代もあり力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたすことがある。また、大切な者が死んで、身代を残して子孫を絶ってしまう。神のおかげを知らんから、たがい違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代も出き、一年まさり、代まさりのおかげを受けることができるぞ。
神の機感にかのうた氏子が少ない、と。その神の機感に、いわゆる神様の御心にかのうた氏子にならせて頂くために、信心をさせて頂くと言うてもいいと思うんですよね。ですから、そこんところへ、いつも焦点がおかれる。神の機感にかのうた、神の御心にかのうた氏子にお取り立てを頂く、と。信心のけいこをすると言うても、そこのところの焦点を外しては、けいこがけいこになりません。
神の機感にかのうた氏子を目指しての信心でなからなければいけません。そこを外したら、これは、的違いとでも申して、ね、的違いの信心だと言わなきゃなりません。なかなか出来ません、いつも的が違っております。ね。神の機感にかのうた氏子。ね。そこで、神の機感にかのうた氏子にお取り立てを頂き、機感にかのうた生き方が出けるおかげを頂く。そこから、身代も出け、人間も出け、無事達者で一年まさり代まさりのおかげが約束されるわけなんです。ね。
ですから、その、おかげが焦点ではなくて、神の機感にかのうた氏子にならせて頂くというところに焦点を置かなければならんのですね。で、そこから割り出してまりいますとです、はあ、どこが改まなければいけんな、と。こういう思い方は間違いだなというような答えが、案外、すぐに出て来るのじゃないでしょうかね。今日は、この七十八節の中のここのところに焦点をおいてお話をしてみたいと思うんです。
ちょうど中に、大切な者が死んで、身代を残して子孫を絶ってしまう、と。神のおかげを知らんからたがい違いになって来るというところ。ね。大切な者が死んで、身代を残して絶ってしまう。神のおかげを知らんから、たがい違いになって来る、と。これは、大切な者が死んでということ、死ぬる生きるのことだけではなくて、大切の物を無くしてと言うても良いと思うですね、物でもいい、人に限らないことで。ね。
それは、形ある者は必ず一遍は亡くなるものだ、と。人間は、一遍は必ず死ななければならんのだ、と。そういう意味においての死ぬるとか亡くなるというのではない。今、この人がおってもらわなければ困るというようなことなんですね。あれをなし、これもなされて、本当、万事万端にご都合お繰り合わせを頂かれて、神様のおかげの中にと思われるほどしの、例えば死に方、と。そういうおかげを、やはり頂かなければならん。ね。世の中には、やっぱ、それがずいぶん、そういうようなことがありますよね。
いわゆる、互い違いになって来るわけなんです。ところが、私どもが日常生活をさせて頂きます上に、そうした互い違いなことになって来る、と。ね、その時のその、受け方というか、その実感というものがですね、もちろん神の機感にかのうてないから、神の機感にかなうための互い違いでありましょうが。互い違いに、いわばなって行く時にこそ、たとえば一つの願いを立てて、その願いが成就しない。
かえって、右と願ったら左となるといったような時ですね。氏子の願いが成就しなくても、神様の願いが成就しておる時だ、というような頂き方。また、それは事実でもある。ですから、本当に神様の願いが成就して行っておると思われる、いわば互い違いでなからなきゃならんのですが。そん時に私どもが難儀を感じますね、互い違いになって来る時に。いわゆる、思うようにならない時に、その難儀を感じます。
そこからですね、私は、心からのたとえば反省というか、そこから、心からのお詫びが出来る。今日わたし、あることというか、まあ、不行き届きなことでございましてね、そのことを本当に心からお詫びをしておる、まあ、つもりであった。神様に不行き届きでありますことを、心からお詫びさせて頂きよる。まあ、自分では、心からお詫びをしておるつもりである。
それは、御神眼に頂きますのがね、皆さん、なら、ご承知でしょうかんしらん。枯れた大きな木にツタがいっぱい、こう絡んでる。ツタ、ね。ですから、いかにもその、ツタの葉で、夏ならば青々としておるでしょう。秋口にかけたら、真っ赤に紅葉するでしょう。ね。けれどもそれは、その、芯は枯れておるのである。その木があって、その木にツタの葉がいっぱい絡んでおる。これが夏ならば、生き生きと青々として、いかにも、その芯から青々としておるように見える。
けれども、その芯である、木であるものは枯れておる。秋口にでもなって参りますと、段々、これは紅葉してまいります。(ふゆべに?)を納めたような、真っ赤ないわゆる紅葉。冬ともなれば、それが散ってしまうわけなんです。そういう、その情景を頂きましてね。ははあ、私が今、心からお詫びをしておるということは、これは本当のお詫びになっていないんだな、と私は思うた。
本当にこのような不行き届きのことになって相済いません。本当に、私が悪うございましたと言うてお詫びをする。まあ、自分としては心から詫びておるようであるけれども、神様はそれを真のお詫びとしては受けておって下さらん。まだまだ、本当なもんじゃない。それは、ちょうど枯れた木にツタ葉が絡んで、いかにも生き生きとして青々としておるかのように、真っ赤に燃えておる紅葉に見えるけれども。
それは、ツタの葉が絡んでおるだけのことだ、と。真からのお詫びじゃない、と私は感じましたから、本当に真からのお詫び。お詫びを言うと言うても、お礼を申し上げると言うても、そのお礼が神様に届かなければね、そのお詫びが神様が、わかった、これからは大切にして行けよ、と、今日のところは、まあ、これで許してやろうと言うて下さるほどしのお詫びでなからなければ、いわゆる、それは形だけのお詫びになり、形だけのお礼になってしまうんです。ね。
あそこで色々考えましたね。本当、皆さんがよく、お詫びをして下さいと、お詫びを申し上げますと、こう言われるけれどもですね。たとえば一つの、まあ、難儀な問題に直面した時に、それを、私の不行き届きのために、このようなことになりました、相すいません、と。
そういうお詫びをしながらです、お詫びをながら、けれども、私だけが悪いのじゃない。誰も悪い、彼も悪いといったような内容であったら、これはもう、全然お詫びになりませんようですね。詫びると言うたら、何と言うても、それこそ電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いのもみんな私が悪いのだというようなものでなかなきゃならないということ。子供の不始末を親が詫びる。本当に親の不始末として詫びるなら良いけれども、子供も不行き届きだ、子供もわからん。いくら言うて聞かせても、分からん。
だから、親が詫びねばならないような結果になる、というようなものであっては、私はお詫びにならないと思う。詫びると言うたら、誰でもない、彼でもない。真実、私が不行き届きでございました、私が相済まんことでございました、というところに至らなければ、私は本当のお詫びにはならないと思う。
いや、そりゃあ、私も悪かばってん、あの人も悪かというような内容でお詫びをしたって、神様には通わないと思うですね。信心をさせて頂く者、ね、ここで言うなら私一人のものでなからなければならない。子供の不始末は親の不始末、信者の不始末は教会長の不始末としてです、いくら言う聞かせても分からんな、あんた達はといったようなものではなくて、もう真実、私の不行き届きとして詫びられる。
まあ、今日は私がお詫びをしておるのは、確かにそのような内容を持ってお詫びをしておるようであった。詫びて、詫びて、詫び抜かせて頂いておる、繰り返し詫びておるから、詫び抜かせておるようにあった。私が相済まんことでしたと言うて、お詫びをさせて頂いておるのだから、まあ、それでよかりそうなもんだけれど、神様はその、今申しますようにですね。芯は枯れておる、ただ、その表面だけが生き生きとしたり、または、紅葉したりしておるだけのことである。
ツタの葉が絡んでおるように、木に。ね。枯れた木にツタの葉がぎっしり。その中身が見えないくらいに、(かづら?)が絡んで、いかにも、これはツタの木でございますというような風にしておるけれども、実際は、芯からのツタではない。ただ、その木に絡んでおる、心に絡んでおるだけとしか神様が受けて下さらなかったとするところにです、もう一段と、このお詫びの内容を改めなければならないなあと、こう思わせて。大切な者が死んで、身代を残して子孫を絶ってしまう、と。
神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。ね。神のおかげを知らんから、ね、本当のお詫びにも、本当のお礼にもなって来ないのだ、と。だから、このような互い違いなことになって来るんだ、と。だから、このような不始末なことになって来るんだ、と。ね。神のおかげをいかにも知っておるようである、分かっておるようであるけれども、神のおかげを知っておるから、知らないからそういう事になって来る。
私は思うのにですね、神のおかげを実感し、本当にこの知っておるということの時にはですね、第一ね、心にイライラがありません、腹立ちがありません、不平が不足がありません。神のおかげを、心に本当に感じておる時なわけ。ね。
ですから、そういう、その、不始末、お粗末ご無礼といったようなことが、イライラしたり、その、モヤモヤしたりするならですね、まだまだ、神のおかげを知らんから、そのようなことになるのであり、また、結果に、互い違いになって来るのである。ね。そこで、その、私どもが真からのお詫びをすると言うても、ね。その、真からのお詫びになっていない。真からのお詫びになったら、答えがどういうことになって来るか、と。真からのお詫びをさせてもらいよりますとね、それが真からのお礼に変わってくるです。
真からのね、心からのお詫びをさせてもらいよりますとね、それが、段々、心からの御礼になってくる。そういう、私はお詫びであって、初めてお詫び、心からのお詫びということが言えるのだと、今朝分からせて頂いた気がした。今までお詫びをすると言うても、ただ、ね、私が悪うございますと、口には、表面には言うておるようであるけれども、心には、あの人が不行き届きだから、この人が分からんから、私が詫びんならんといったような内容がある。
これほど毎日、言うなら有り難い御教えを頂きながら、あんた達が分からんから、私が代ってお詫びせんならんと、例えば、お詫びをしよるけれども、それを信者のせいにしたり、子供のせいにしたりしておる内容が、どこにかある。だから、御礼になって来ないのだ、と。私は今朝ほど、それを実感したことなかった。ね。なるほど、そういうことを分からせて頂いてお詫びをさせて頂いておりましたら、段々だんだん、お詫びの内容が純粋なものになって来た。
いわゆる、誰でもない彼でもない。ただ、私の不行き届き、不始末としてです、お詫びをするより他にはない。そのことをお詫びさせて頂きよりましたらですね、ね。こういう不始末なことで、このようなことのおかげでです、ね、そのおかげで、私が今日、大発見をさせてもらう。私がおかげを頂くということになったんです。そのお詫びをさせて頂かなければならないようなその事柄からです、お詫びをさせて頂いておりましたら、ね。もう、これから、このような不始末を繰り返すようなことは致しませんという、改まりも入れられますと同時にです、そのことによってです、そのことによって、このような大事なことが分からせて頂きましたと、お詫びの内容が段々お礼に変わってくる。ね。
その時初めてです、神様が許して下さったという実感が、私の心いっぱいに広がってきた。ね。いわゆる、本当の意味においての、神のおかげが分かってきたのです。このことを分からせるための、それであったという事になって来たんです。いわゆる、神のおかげが本当に分かって来たんです。ね。お道の信心をさせて頂きますと、ね、お礼、お詫び、願い、と。祈りの内容が三つにこう、分けられる。祈りの内容がこれでなからなければならんという風に、まあ、説かれております。ですから、お礼も申し上げる、お詫びも申し上げる。もちろん、願いあることは、実意を持ってそのことを願うて行く、と。
けれども私はですね、今日、皆さんに聞いて頂いておることは、神のおかげが分かるということ。昨日、金光の方から古川のご一門の方達が見えられました。まあ、ここ辺のあれで言うなら、膝直しというような意味ですね。お土産に、これはまた、合楽にひとつの宝物が増えたというような、その、お土産を頂戴しました。教主金光様が、大きな軸にして良いほどしの、いわゆる、教主様のいわばご真筆でございますよね。
それを、さっそく私、その、ぶしつけながら開かせて頂いて見ましたら、「天地の大恩」と書いてあった。それはもう、見事な、その、筆致ですね。金光様も大変な、書道の上においても(たいか)でお在りになりますが。もう、それが、もう、ただ、綺麗な字といったようなじゃなくてですね、もう、本当に有り難い字なんですよ。ね。それを頂きながらです、教主様は私に何を求めてお出でだろうか。わざわざ合楽に、私に下さるのに、天地の大恩と書いてあるが。
大坪、お前は天地の大恩がまだ分かってないのぞ、と言うて下さった気がするんです。そして、今日の御理解。神のおかげを知らんから互い違いになって来るんだ。私どもは大抵、神様がわからん。はあ、こげな有り難い神様を頂いてと言っておるけれども、その神様は実に浅い。ね。ただ、上っ面だけの、そのおかげに伴う神様だけであって。今日私が申します、言うならば、木にかつらがこう、絡んでおるような意味合いにおいてのお詫びであったり、または、その程度の神様である。
天地の大恩を知らぬからて、神のおかげを知らんからということになる。その神様のおかげをです、今日は、不行き届きは不行き届き、不始末は不始末としてです、そのことによって、そのことが少しでも分からせて頂いた、神のおかげが。ですから、そのお詫びを繰り返させて頂くその先には、それがお礼になっておる。ね。ですから、お詫びを心からさせて頂いて、そのお詫びがかのうたというところにはですね、それが御礼になって来るような。
ですから、お詫びと礼とは、もう同じだ。いや、もっと言うならば、お詫びと礼と願いというのは、もう一本だということが分かります。そすと、お詫びしたり、お礼したり、願うたりせんでもいいことになるんですよね。そうでしょう。そうでしょう。ね。詫びれば許してやりたいのが、親心じゃと仰るのですから。詫びて、詫びて、詫び抜かせてもろうて、詫びがかのうたら、その印がです、心の中に湧いてくる喜びであり、御礼になっておる。その御礼は、もう願わんでも、ここにおかげは約束されるのですから、いわば、願うこともいらないということになる。心からのお詫びという事になって来るとです、ね、もうお詫び一本でいいということが分かりますね。
ね、天地の大恩がわかる。理屈の上においては分かっておる。けれども、心から分かっていない。神のおかげを分かっておるようであって、心からは分かってない。だから、心からのお詫びも出けないということになりますね。神の機感にかのうた氏子と、こう仰る。私どもがです、その神の機感にかなう氏子に取り立てて頂くことのために信心があるのだと、焦点はそこにある。
ね、的はそこのところを的にしてけいこしなければならん。もちろん、一遍にそこに、百発百中というように、その当たる訳じゃないのですけれど、焦点はそこに置く。私が至りませぬからという、そこに置く。ね。真心が足らん、親切が足らん、ね、思いやりが足らん、ね、実意が足らん、丁寧が足りない、と。もう、それこそ、足りないずくめの私に気付かせて頂くということをです、神の機感にかなう氏子ということが焦点でのけいこであって、初めて、それが本当に気付かせて頂くということになるのであると、私は思うんです。ね。神の機感にかのうた氏子にお取り立てを頂きたい。
そこから、お詫びに致しましても、心からのお詫びというお詫びが出ける。その心からのお詫びが出けるところからです、信心させて頂く者の姿勢と言われますね。いわゆる、いつも自分の足元を見つめさせて頂く実意丁寧な姿勢。いわゆる、お詫びをする時には、上、頭を上げてお詫びをするモンなありませんもんね。お詫びをするのは、やはり平身低頭、畳に頭がすり付くように、そういう姿勢が私はお詫びの姿勢であると、こう思う。ね。
そういうお詫びの姿勢を持って、そこから生まれて来る御礼の心に繋がって行く在り方。ね。それが、私は今日は、願いにも通じるのだと聞いて頂きましたですね。無事達者で子孫も続き、身代も出け、一年まさり、代まさりのおかげを受けることが出ける。誰でもここんところの願いを持たない者はありません。ですから、ここんところのおかげを頂きたいと、希うならばです、まず、神の機感にかのうた氏子を目指さなければなりません。ね。その神の機感にかのうた氏子を目指す、いわゆる道すがら、様々なことが起こって参ります。いわば、本当に相済まんといったような事柄の場合に直面した時です、その相済まんが本当の意味においての相済まんというお詫びに、神様が引き届けて下さるほどしのお詫びになって来なければならない。そのお詫びは、お礼に通じ、願いにまでも通じてくるほどしのお詫びでなからなければならない。
そういうけいこをさせて頂くということがです、私は神の機感にかのうた氏子を目指しておる者の姿勢、信心ではなかろうかという風に思うのです。どうぞ。